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東日本大震災10年目に寄せて

東日本大震災から今日で10年が経ちました。

これまでの人生で3.11ほど不条理に、私の一部を奪っていった事柄はありません。

 

私は岩手県大船渡市で生まれ、震災の起きた2011年には東京で一人暮らしをしていました。

2011年3月11日の14時46分、私は古本屋でアルバイト中。突然の大きな揺れに本棚から飛び出した本が散乱し、私はバイト仲間と手を取り合って震えていました。

…問題はその後。しばらく時間が経つにつれ、どうやら震源は東北のようだ、とラジオやネットで速報が流れ始めたのです。

―両親や兄弟、祖父母は大丈夫だろうか?血の気が引きました。

その日は、東京の親戚の家に身を寄せさせてもらい、夜になって実家の家族全員、母方の祖父母の無事が確認できたと連絡がありました。充電がないから、あまり連絡できないけど…と添えられて。

ただ、数日経っても父方の叔父だけ連絡が取れないのです。

叔父は陸前高田に住んでおり、その日は仕事へ行ったそう。「きっと被災して、どこかの避難所に避難しているのだろう。」とみんなで言い合っていました。

しかし1週間経っても、叔父からの連絡はありません。携帯の充電がないのかも、電波の通じないところにいるのかも。と、心配していませんでした。

各避難所から手書きの死亡者と生存者のリストがネットを通じて発表されるようになり、私は希望を持ちました。

「叔父は、どこかの避難所に身を寄せて生きているはずだ!これでどこに居るのかようやく分かるぞ!」と。

東北に住む私の家族は、電気が不通になっているため携帯の充電がままならず、ネットをできる環境にありませんでした。

そのため、東京に住む私が叔父を探す役割になったのです。

随時更新される避難所や役所のリストを、一行ずつ眺め「叔父はどこにいるのだろう?」とパソコンに張り付いて、睡眠時間は一日2.3時間の日々が続きました。

 

―震災から約20日が経った日の事です。

私はとうとう叔父の名前を見つけました。遺体安置所になっていた、ある小学校で。

何も言葉が出ず、ひとつの音も聞こえなくなり、その場で固まりました。それは空白としか言いようのない、長い長い絶望でした。

親に連絡をしましたが「叔父さんが死んでしまった、○○小学校に居るって……」それ以上何も言えなかったのです。

 

叔父の葬儀には、私も東京から駆けつけました。

祖父から「見つけてくれて、ありがとね」と声をかけられたときのやるせなさを思い出すと、未だに涙がこぼれそうになります。

亡骸に対面したとき「叔父さんの名前を見つけるその瞬間まで、ずっと生きているって信じていて、それを私は誇らしいと思う。」と伝えたかったですが、うまく言葉にはなりませんでした。

 

葬儀では、私たちだけが悲しみに暮れることはできませんでした。

なぜなら葬儀に参加してくださる近所の方、叔父の友人など、大半の方が家族や親族を亡くしていたり、行方不明の状態が続いたりしており、誰もが途方に暮れていて、参ったねー…という雰囲気だったからです。

 

心の真ん中にぽっかりと穴があいたまま東京に戻り、あいた穴の上に無理やり蓋をして、働きました。

大丈夫?と聞かれても、大丈夫じゃないと言ったら、せっかく閉めた蓋があいてしまいそうな気がして、大丈夫ですよ!と答えていましたね。

震災から6年7年…と時間が経つにつれ、その穴の存在が薄らいだように感じていましたが、10年が経って、ようやく蓋を外し、そこを正面から見つめられるようになりました。

 

震災から10年経って、変わらず思うのは『元気で幸せに生きられるのは、なんて素晴らしいことだろう。』ということ。

世の中には不条理なことがあり、時として人生さえも奪われてしまう。

まだ胸が締め付けられることはあるけれど、少しずつ時間が悲しみを癒してくれています。

やはり可能な限り、私は毎日楽しく生きたい。そんな風に今日も生きるし、多分これからもそうなのだと思います。

 

最後になりますが、震災でお亡くなりになった方には、ご冥福をお祈りいたします。

残された私たちは防災の備えを改め、どうか今日も生きていきましょう。

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